約820年前から栽培されている和束茶の歴史
和束の茶畑に訪問した際に弊社の茶師から聞いた和束町の歴史、和束茶の起源について皆様にも一部をお伝えします。
鎌倉時代の和束町
和束茶の歴史は今から約820年前の鎌倉時代(1192年~1333年)に海住山寺の高僧「慈心上人」が茶の種子を茶業興隆の祖といわれる「栂尾の高山寺の明恵上人」から分けていただいたのが始まりです。海住山寺は和束町のお隣の加茂町にあり、天平七年(735)に聖武天皇によって建てられ現在は国宝の五重塔や重要文化財が多くある歴史あるお寺です。慈心上人は茶の種子を自身の海住山寺の敷地内ではなく和束町にある鷲峰山の山麓に栽培を始めます。
なぜ和束の地に茶を植えたのでしょうか
明恵上人は師匠である栄西から種子を分けていただいた際には高山寺のある栂尾で栽培しています。そのため慈心上人もお寺周辺の加茂町やその周辺に当時も植えればよかったのでは?と考えてしまいますが一番に植えた場所は和束茶エリアの鷲峰山であったのは土壌のことや環境を考えてのことだったのかもしれません。
茶師によると江戸時代になって今の相撲の番付表と同じようなお茶の番付表があったそうでその番付表を見ると小結、大関、関脇などと書いてある中に和束茶のエリアや宇治田原周辺は番付表に乗っているが加茂や南山城村は入っていない。また、初めて茶の木を栽培した鷲峰山の周り15キロの範囲でとれるお茶はなんと日本で一番おいしい美味しいという古文書もあるような土地になっているそうです。現代になってお茶に適している土壌はどんなところか化学的に調べてみるとその番付表と一致するそうで昔の人々はまるでエスパー!!と驚いたことを覚えています。
弘法大師が杖を突いたら温泉が湧き出た、と同じような話だわ!と茶師が笑わせてくれましたが本当に第六感のような感覚があったのではと話を聞いていて感じました。
慈心上人とは
また慈心上人は水路を作ったことでも有名です。瓶原は付近に川がありながらも標高が高い為、水源に恵まれなかったそうです。そのためその事実を知った慈心上人は和束川に水源を求めて川に井手枕という堰堤を設けました。そこから十数年かけて6755mの水路を村人とともに完成させたと伝えられているそうです。当時は選ばれた16人の井手守が水路を守っていたそうで現在でもその子孫が水路を守っているとのこと。
慈心上人は和束町に農産物となる茶を反映させただけではなくその茶を美味しく作る水にも貢献していた方でした。
京都御所へ納品
江戸時代に皇室領となり、京都御所に納められるようなりました。この頃から茶栽培が増加し、江戸中期には茶保護政策により、和束の茶業は一層進歩したと言われています。
現在の和束町
和束町は約820年の時を経てまた新しい時代を進んでいます。最近の記憶で新しいのは星野リゾートとの協定を結び、宿泊施設の検討を2018年からスタートしています。また、現在は和束町にはヘリポートが建設されヘリコプターで訪れる観光客もいらしゃるとのこと。和束町は今までの茶の歴史から茶源郷として国内からはもちろん、海外からの観光客も増加傾向にあるとのことです。
私が和束町を初めて訪れたのは2017年の茶業の落ち着いたお盆の時期でした。夏の暑さがピークの時でしたが和束茶カフェの駐車場はひっきりなしに車が入れ替わり皆さんお茶を求めにいらしていました。
また海外からの方も多くみられ、レンタサイクルを借りて茶畑を回られている方、茶畑と共に動画を撮られてレポートしている方など多く出会いました。
茶師のもとにも毎年留学生が茶畑の勉強をしに来ているそうで私が訪問した日にも数名いらしていたそうです。京都駅からも車で1時間ほど。山道を進んでいくととても行きやすい場所とは言えない場所に多くの人が茶を求めてくる茶源郷の和束町にはまだまだ多くの魅力と可能性が詰まっているな、と感じます。
是非一度皆様にも訪れていただきたいです。
最後までお読みいただきありがとうございました。